「ありがとうフォトンを発信し、ありがとうというヘルツの世界に移動する」?
量子力学で記述されるミクロの世界では、物理現象は確率に支配されます。
その確率は時間変化し得、またその変化は決定論的、つまりある時点での確率値が与えられれば、その後の任意の時点での確率は一意に求まります。
ここが量子力学の妙で、確実に言えることは最大でも「どの現象がどのくらいの確率で起こるのか」止まり、ということですね。
可能性のある現象の内のどれが実際に起こるかについては言及できないのです。
「シュレディンガーの猫」。ご存知なければ検索してみてください。
箱の中の猫はある時点で、ある確率で生き、ある確率で死んでいる。
そのどちらであるかは、箱を開けるまでは分からない。
「そんなの当たり前だ」と思うかもしれませんが、量子力学的にはこの世界を、「猫が生きている世界」と「死んでしまった世界」が重ね合わさったもの(波動関数)として記述します。
先ほど決定論的な時間発展をすると言ったのはこの波動関数なのです。
実際に箱の中でピンピンしている猫と死んでしまった猫とが「重ね合わさって」いるとは考えづらい。
そこから、量子力学流確率論の様々な解釈が生まれます。
ここ数十年、色んな物理学者が色んな見方を提案し喧々諤々議論を戦わせてきましたが、何と未だにこれだというものに行き当たっておりません。
波動関数が実際に何を表しているのか、まだ判っていないのです!
その多種多様な解釈法の一つに「多世界解釈」というのがあります。
起こり得る現象が複数ある選択肢が生じた時、世界が本当にそれぞれの現象に対応した世界に分かれて行く、とするのです。
猫の生死が両方あり得て、箱を開けてみたら猫は生きていた、と。
この時あなたは「猫が生きていた世界」にいますが、「開けてみたら猫が死んでいた」世界もどこかに実在し、その世界には死んだ猫を見て悲しんでいるあなたがいるのです。
選択肢の分岐ごとに世界それ自体がどんどん枝分かれ的に発生している、というのです。
これもまたちょっと考えづらいアイデアなのですが、実際問題現状では明確には否定されておりません。
この、分岐を繰り返す世界一個一個を「パラレルワールド」と呼ぶのはまあ良しとしましょう。
何らかの時点で「良い気分」・「ポジティブな気分」か「悪い気分」・「ネガティブな気分」かに分かれ得るとするならば、多世界解釈が正しいとすれば(あくまでこれが大前提ですが)、物理学的にはそれぞれに対応したパラレルワールドが存在する、ということになります。
しかしすでに論じた通り、「気分」の良し悪しによって周波数の変わるフォトンの自分発信などというものは存在しません。
「『意識はフォトン』論」
https://phtheory.hatenablog.com/entry/2019/06/20/132921
だからその周波数によって異なるパラレルワールドを行き来するなどという論議にも、物理学的根拠はありません。
多世界解釈が便利に、持論の権威づけに使われているのです。
シュレディンガーの猫の逸話はよく引き合いに出されますがこれも、それが有名でかつインパクトあるがゆえに、持論の正しさを印象付ける目的で使われているのではないでしょうか。
最後にくどいようですが、多世界解釈は量子力学の定まった解釈法ではなく、数ある解釈法の一つに過ぎないことを付言しておきます。
潜在意識とは?
感情・気分の状態によって周波数が系統的に変化する電磁波(フォトン)が身体から放出されている(「自分発信」)、という事実は確認されておらず、科学的根拠はないことについて以前述べました。
「意識はフォトン」論
https://phtheory.hatenablog.com/entry/2019/06/20/132921
今回取り上げるのは、「どんなに幸せな未来を願っても、潜在意識にある感情がネガティブだと低いヘルツの自分発信となるため、引き寄せるのは不幸せばかり」という論議。
「低いヘルツ」という言い回しがまず、もう‥、ね。
「低い・高い」を議論できるのは「物理量」であり、今の場合それは周波数(もしくは振動数)。
ヘルツはその物理量の「単位」です。
「高い山」
意味は分かるし、日常会話として自然ですよね?
「高い」は「山」にかかる形容詞で、そのココロは「山の高さ」という「物理量」が大きいことを示しています。
しかし「メートルが高い山」とか「あの山はメートルが大きい」とは言いませんよね。
メートルは高さの単位に過ぎません。
このような言い回しは科学的議論のみならず日常会話レベルでもへんてこりんです。
「低いヘルツ」などという言い回しを平気で使う人に、より厳密性を求められる科学的議論ができるとは私には思えません。
ところで「潜在意識」とは何でしょう?
慶應大学・前野教授は自身の提唱する「受動意識仮説」において、ヒトの心の働きは数多くの並列分散型情報処理の集合、と論じています。
脳内情報処理過程において、知覚や情動、意思決定、記憶の想起などの働きが同時並行に行われ、その中の最も主だった、最も多くの神経細胞が関与した処理だけがボトムアップ的に、ある特定の時点で経験した知識・経験として脳内記憶装置に受け渡され、単純な時系列の直列型記憶(エピソード記憶)として保存され将来の思考に活かされる、と。
貴方は今、オープンテラスのカフェでコーヒーを飲みながらパソコン作業している、としましょう。
ワープロソフトで文書作成している貴方は、おそらくパソコンの画面を見て、次にどんな文を書き出すか、さっき書いた文章は意を尽くしているか等々、文の執筆に汗を流しています。
突然腕を蜂に刺されました。
まず、とても痛い!
その上それがもしスズメバチなら放ってはおけません。
毒の対処もしなければなりません。
この時はもう、文書の執筆どころではないでしょう。
事後に貴方のエピソード記憶に残った内容は、ある日オープンテラスにてパソコンで作業をしていたこと、書いていた文章のおぼろげな内容、そしてある瞬間蜂に刺されて痛かったこと、などとなるでしょう。
しかし実際にはこの時、貴方の脳が処理していた内容はそれだけではないのです。
テラスの周囲には道があり、犬を連れた人が歩いていたことでしょう。
その道の脇には花が咲き、蝶々が舞っていたかもしれません。
遠くには森があり、その上には青空、そして高い筋雲。
いくらパソコンで作業していたとしても、時には目線を動かすものであり、それらは視野に入っていたことでしょう。
隣のお客さんどうしの会話やお店のBGMも耳に入っていたし、ほのかなコーヒーの香りも嗅いでいたことでしょう。
これらのことは、全て実際に経験していました。
「経験していた」、つまり脳の中でそれらは確かに全て処理されていたのです、並列分散的に。
しかしそれらは、脳の中で行われる情報処理のメインストリームではありませんでした。
メインストリームと言えば、文書を書いていたこと、そして蜂に刺されたことです。
文章書きに集中している時、そして蜂に刺されて痛がっている時に、その時漂っていたコーヒーの香りなんてその人にとってはどうでもよい。
重要な関心事ではない、関与していた神経細胞が相対的に少ない。
だからエピソード記憶に上がってこなかったのです。
受動意識仮説においては、この並列分散処理過程全体を行うのが「無意識」であり、ボトムアップで上がってくる時々の最重要処理課題をただ受け取って記憶装置に受け渡していく過程を担うのが「意識」と定義されます。
もしこの仮説の立場に立って、この無意識を改めて潜在意識と定義するのであれば、それはそれで良し。
明確な定義となるので、科学的な議論の俎上に上ります。
ですがこの仮説を支持するということは、とりもなおさず人とゾンビとの違いはない事、自由意志は存在しない事、などを認めることになります(ちなみに私は支持しています)。
この障壁、越えられる人はそう多くないのでは?
どちらにせよ、潜在意識云々するのであれば、それを明確に定義することは避けられない課題のはず。
しかし、量子力学と潜在意識や引き寄せとを結びつける多くの議論では、この定義を明確にしているものが見られません。
そもそも、「『意識はフォトン』論」でも書いたように、「意識」の定義が既に専門家によりまちまち、というのが現状です。
「潜在意識」とは何ですか?
科学的議論をする為には、言葉遣い一つ一つに厳密さを求め、地に足の着いた議論をすることがまず重要です。
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今の「思い」で過去も未来も変えられる?
― 反粒子 ―
粒子に対し、質量などの属性が同じで反対の電荷を持つ。
電子の反粒子は反電子、とは呼ばずなぜか伝統的に「陽電子」と名付けられています。電子とそっくりですが、電荷は電子がマイナスなのに対し陽電子はプラス。プラスの電荷を持つ電子だから「陽」電子、なのですね。
粒子と反粒子は合流して光に転化する性質があります。光になると同時に衝突した粒子・反粒子連合は消滅します。対消滅と呼ばれる現象です。
最もシンプルな原子である水素は、原子核がたった一個の陽子であり(中性子は無し)、その周りを一個の電子が周回しています。プラスとマイナスの電荷が一個ずつなので、全体として中性が保たれているというわけ。
これに対し両者を共にその反粒子に変えたもの、すなわち反陽子の周りを陽電子が周回する系も考えられ、実際に作り出すこともできます。これは「反水素」ですね。これも反陽子の電荷がマイナスで陽電子がプラスなので、全体としては中性です。
このような反粒子ですが、理論的には「反粒子=時間を逆行する粒子」として記述できることが知られています。つまりミクロの世界では時間軸は対称であり、(我々にとっての)過去から未来に進む粒子がある一方で、それとは逆に時間軸上を進む粒子、つまり未来から過去に進む粒子も存在する、と。後者が我々の目には反粒子として捉えられるのです。
では時間軸を逆行する視点から先ほどの対消滅を見るとどうなるかと言うと、最初は光だけがあり、それがある時点で突然粒子と反粒子の対に変化する、となります。どちらの描像も理論的にはイーブン。どちらでも良いのです。
我々にとって時間の進み方は過去から未来への一方通行でその逆を体験することはないのですが、それは我々が巨視的な世界で生きているからで、ミクロの世界、量子力学が支配する世界ではその常識は通用しないのです。
宇宙が誕生した直後には粒子と反粒子は共に存在しましたが、その後対消滅してほとんどが光に転化しました。ところが(その理由は今のところ分かっていませんが)わずかに粒子が反粒子より多かったために対消滅せずに残った粒子が存在し、その余り物で今の宇宙の様々な構造が出来上がったと考えられます。つまり反粒子は意図して高エネルギー実験で作り出さない限り、自然には存在しないのです。
我々の脳は、少なくとも微視的視点では、量子力学に従う系であることは疑う余地はありません。しかし上述のような理由で、その中でなんらかの反粒子が存在し、役割を果たしているとは考えられません。ミクロの世界で時間軸が対称であることを、我々が過去のことを思い出したり未来のことを思い描いたりすることと結びつける議論がありますが、両者は全く無関係です。記憶の想起や未来の想像と反粒子とは、なんら関係はありません。ましてや現在の思考のありようによって過去や未来が変えられる、などという議論は暴論であり、少なくともそこに物理学的根拠はありません。
量子力学的・物理学的根拠があるように見せかける議論にはご注意を。
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「意識はフォトン」論
「物質から如何に意識が発現するのか」
この問いかけに対してはまず、「意識」とは何なのか、その指し示すところをはっきりさせなければなりません。
今のところ明確に定義された学術用語としての「意識」が確立している訳ではなく、それで何を意味するかは研究者による、というのが実情です。
例えば統合情報理論ではそれはクオリアであり、受動意識仮説ではそれは何かに注意を向ける心の作用、という風に、その是非はともかく論者によって内容が異なるのが現状です。
ただ、人の精神活動の一部を指している、というのは共通項と見てよいでしょう。
「意識の正体はフォトンである」
フォトン”photon”とは光の粒子でありボソンの一種たる素粒子ですが、この言明は何を意味しているのでしょうか?
現代脳科学では物質たる脳の活動の所産として意識を捉えようとしています。
私の理論ではその脳のところがPFOに取って代わりますが、いずれにせよそれは物質であり、意識の発現メカニズムの解明が期待されるところ。
その様な科学研究を絶望視し、意識を物質とは別の、科学ではリーチできない対象とみなすのであれば、それはそれでその実情を如何にして証明するのか、如何にしてそれが将来の人類の知識たり得るのか、というより重度な難題に立ち向かわなければなりません。
そして、「意識の正体がフォトン」論。質量が無く1秒に地球を7周り半周する程の高速移動を常に続けるフォトンが我々の意識の実体である、とは一体どのような世界観なのでしょう?
「この意識たるフォトンを我々は常に発信している。
そしてその周波数はポジティブな感情の人ほど高い。
うれしいという感情を抱いた人のフォトンの周波数は、悔しいという感情を抱いた人のフォトンの周波数より高い。」
人は常にフォトンを発信しています。それは間違いありません。
それは体温によるものであり、体温が36℃の場合波長9.4マイクロメートルの遠赤外線という形で放出されています。
そして一般に高温な物質程放出する光の波長は短くなります。
明言しますが、ポジティブな気分の人ほど高周波数、即ち短波長な遠赤外を放出していうという事実はありません。
何かに喜んでいる人が、悔しがっている人より体温が高い、という事実もありません。
そもそもこのような議論において、その波長が実際にいくらなのか、その数字を明示しているものがありません。
そのことも、それが観測された事実ではない事を物語っているのではないでしょうか?
何の科学的根拠もない科学談義に惑わされないように。
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「波動が共鳴して云々」の珍理論
量子力学では物質の構成要素は粒子でもあり波でもある、は正しい
(厳密にはこの言い回しはmisleadingですが、細かいことは無視します)。
その意味で、物体に何らかの波動を作用させて物体の状態を変化させる、ということは、一般的にはありえる事です。
マイクロ波を照射して、食品中の水分子の回転状態(量子力学的概念としての)を励起し(水温を上げると共に摩擦を起こさせ)、食品を加熱する電子レンジは好例です。
この場合の「波動」はもちろんマイクロ波。過不足無し、明瞭です。
まず、この「波動」が何であるのか、マイクロ波なのか赤外線なのか可視光なのか、これら電磁波ではなく他のものだとしたらそれは何なのか、明確に定義されず、単に「波動」とのみうたっている議論は眉唾だと思ってかかった方が得策です。
それは科学的根拠のない、単なる量子力学のイメージに乗っかった似非科学の可能性が高いです。
更に以下は私の実体験。
宝石を体の不調な個所に当てると、不調が治る、と。
で、それは物理学によれば素粒子というのが弦でできていて、人間の身体も当然弦でできている。
宝石からの波動が弦の振動に作用した結果なのだ、と。
素粒子が弦であるとは、超弦理論と呼ばれる理論で与えられる描像です。
超弦という一種のひものようなものでこの世の素粒子を記述すると、現代素粒子物理学が抱える多くの問題が解決されると期待されている理論です。
素粒子の種類の違いは弦の振動様式の違いによる、とされます。
ところでこの超弦理論、今の段階では仮説にとどまります。
仮説である、とはその正しさはまだ実験的に証明されていない、という意味です。
仮説を仮説と明示せず説明に使う手法はフェアとは言えません。
がしかし、それより重大な問題がここにはあります。
波動の例として電磁波を取り挙げます。
物質系は電磁エネルギーを吸収しますが、その為には物質系の固有周波数と電磁エネルギーが「共鳴」、即ち同調しなければなりません。
極めて大雑把に言うと、分子の回転運動はマイクロ波に共鳴します。
つまりマイクロ波を照射することで、分子の回転が促進されます。
分子が伸びたり縮んだり、曲がったりまっすぐになったりという振動運動は、赤外線に共鳴します。
マイクロ波より高エネルギー。
分子には電子状態と言って、分子内に捉われている電子のその様々な束縛のされ方に対応する、量子力学で記述される独特の状態があるのですが、これは我々が目で見る光、可視光に共鳴します。
つまり、可視光を吸収して、分子の中の電子はその存在様式が変化します。
赤外線よりさらに高エネルギー。
このように物質と電磁波、即ち外部からのエネルギーには共鳴し合う関係があり、共鳴しなければ、エネルギーのやり取りは生じません。例えばマイクロ波を照射しても、電子状態は変化しません。
では、先ほどの弦の振動は何に共鳴するのでしょう。
それはエネルギーレベルが高すぎて、この地上に共鳴するものは存在しない、が正解です。
世界で最も高いエネルギーを生成する実験装置、スイスのLHCから見ても、その1000兆倍程度も高いエネルギーでないと、弦の振動を変化させることはできないのです。
マイクロ波で電子状態を変える事より、もっともっとはるかに無謀なことなのです。
更に、弦の振動が変わるということは、物質の種類が変わることに他なりません。
万が一宝石がそばにあるだけで、アップクォークがダウンクォークにでも変化するなら、それは原子核内で陽子が中性子に変化することになり、世の中あっと言う間に不安定核種の放射性物質だらけとなり、とても生物が住める地球が誕生する暇がありません。
「手で宝石をかざすと宝石から何がしかのエネルギーが出て、弦に共鳴して」、などといかにも科学的に説明したような体ですがとんでもない。
このように、明確な根拠を持って考えることが「科学的思考」です。
感覚的に「分かった様な感じ」が一番怖いのです。
そしてこの「分かった感じ」を与えて納得させる論調が誠に多いのも残念ながら事実なのです。
量子力学を振りかざして来たら、今言うその「エネルギー」とは具体的に何か、「波動」とは何か、何が何に「共鳴」しているのか。「共鳴条件」を満たしているのか。
突っ込んで考える思考の癖を身につけたいものです。
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NHK「超常現象」を観て感じた、スピリチュアルと科学の齟齬
科学に不信を持つスピリチュアリスト・霊能者
スピリチュアルに不信を持つ科学者
双方の問題の一端が見られたかも
番組内ではまず、霊の目撃談の多いイギリス・ウェールズのマーガム城でのSPR心霊研究協会による調査の様子。
それを元に、霊体験の様々な実例を検証
〇体験者が感じる寒気・冷気の要因は、恐怖心に起因する体温低下
〇霊の目撃は、壁などのシミによるパレイドリア現象
〇オレンジ色の光の目撃を、脳の視覚野への電磁波の影響による幻覚
〇トンネルや光、美しい景色などの臨死体験を、低酸素状態の脳が起こす現象
〇体脱体験(自分の意識が飛んで、横たわる自分の身体を上から見ている体験)を脳のデータ処理のミス
と、それぞれ結論づけた。
科学で一定根拠を持って裏付けられる内容が、自らの信念に合致しない、というところである意味「感情的に」、霊能者の科学不信になる部分があるのだとすると、それは受け手の側に問題があるのでは?
今の科学で説明できない事実があるとの信念があるとしても、発展し続ける科学の将来まで否定するのはある意味傲慢なのでは?
体脱体験の実験(写真)では、被験者にゴーグル内で自分の背中とその上を動く赤い点の映像を見せる。その赤い点とシンクロして動くロボットアームで、被験者の背中に動く圧迫感を与える。
この実験で被験者は、自分の意識が自分の身体から離れて宙に浮かぶ感覚を得た、と訴える。
しかしこの実験では、そもそも自分の身体の映像をゴーグルで見せている
つまり視覚情報でデータ処理のエラーを起こさせている。
実際の体脱体験では、外的要因でなく「自己完結的に」自分の身体を客観視している。
それが脳のエラーだとして、そのエラーを引き起こしているのが何なのか特定できてないのに、体脱体験が脳のデータ処理エラーと断定するのは、恣意的であり行きすぎではないだろうか?
このような論調が科学者への不信を高めるのかもしれない。
量子力学的実在についての立場
大まかにいうとこんな感じかな