Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

真理は相対化される

20年ほど前住んでいたマンションの近くに新たなマンションの建設計画がたった。

組合は日照権その他を盾に建設中止を訴えたが通るはずもなく、高さを1.5m低くするという妥協案を飲まされマンションは建てられた。

どちらの側にも顧問弁護士がいて、それぞれの法の解釈で議論を戦わせる。

最後は調停や裁判の形で、法律の下第三者が「客観的な」裁定を下し、どちらかが勝ちどちらかが負ける。

重要なのは、どちらも自分こそが正義だと思っている、ということ。

法律の専門家が自分なりの真理を貫き、正義と信じて戦う。

負ければ法か法の解釈をした法曹界の誰それかにその不備や過ち等の問題点を問いかける。

 

現代科学にも同じ図式が見え隠れしているような気がしてならない。

国立私立問わず、日本の大学は産学協同が推奨され、商業主義の影響をもろに受け、世の役に立つ、儲けにつながりやすい研究へと、科学がどんどん傾斜している。

経済成長イコール正義の図式の下では、その成長論理のみで科学も走らされる。

科学の側の人間は、研究成果が将来どのような結果をもたらすか想像でき、場合によっては大きな災いをもたらす可能性を十分認識しているのに、そこに殊更目をつむり現世利益追求に陥っている。

その原因は、社会の側、科学者の側、双方にあるだろう。

科学者の側の問題点について、今後考えていきたい。