Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

多次元宇宙3

              何かを自分なりに調べてみようと思うのであれば、まずその対象に興味を持つことが必要条件だ。その興味の持ち方として、エンターテイメントとしてTV番組を楽しむように心霊現象の怖さ、不気味さなどを興味本位に捉えるところで止まるのも一つの選択だ。しかし心霊や他界の存否、またそれらが存在しないとして、ではいかなる自然現象や心理状態が関与しているのか、存在するのであればその存在様式は物理学的にはどのように説明できるのか、など真理探究の立場から見ようというのであれば、いたずらに怖がる必要はないのではないか。本来探究的立場に立つポテンシャルのある人が、無用な恐怖心にその心を閉ざされ、探求心をそがれるようなことがあれば実に勿体ない話である。真理を探究したいという欲望は他の動物にはない、人間だけが持ち得る感情だからだ。興味はあれども探究心はそがれ、他人の鼓舞するままに恐怖感をあおられ、気分を高揚させて「怖い話が好き」のレベルで終わってしまうようなことがあったとすれば、いくらエンターテイメントとしてであれ恐怖心をあおるのもおのずと限度があると思うのである。
              先に悪霊があれば善霊もあるはずだと述べた。霊が存在するとすれば、それは意識・個性の死後存続を意味する。肉体が滅んだ時に、自分の意識も失われ一切が無になるのかどうか。人類が長年問い続けてきた問題であり、時代や宗教、地域に応じて様々な見解がある。個人レベルでも然り。事実は分からなくとも、厭世感からか希望として「死」=「無」、すなわち死んだら何も無くなってしまう方が良いと思う向きもあるだろう。だが、「死」が終わりでないとしたら?その場合に抱く感想は人それぞれだろうが、確かなのは「その後」に対するコンセンサスは今のところ得られていない、と言うことである。宗教観や個人の思想により様々な描像が与えられているはずであり、一宗教団体の内部において死後の世界とはこういうものだとのコンセンサスが得られている事はあるだろうが、科学研究の成果として、あるいは学校で教えられるものとして確固とした定説が得られているわけではない。そのことを踏まえた上で、では死後存続があることを仮定したとするならば何が言えるだろう。例えば既に他界した家族、優しかった祖母、死に目に会えなかった父親、不慮の事故で亡くした愛息に、自分の死後再び会う事ができる可能性があると予想することは可能だろう(断言はできない)。これについて皆さんはどう思うだろう。とても素晴らしい事ではないだろうか。残念ながら治安が良いといわれる日本でも人を殺める事件は存在する。2011年早春、東日本ではあの忌まわしい大震災で大勢の方々の命が奪われた。突然身内の死に直面せざるを得なくなった時の心中なぞ今さら論じるまでもない。筆者は母親を病気で亡くした。病気であって自然災害のように突然なことではなかった。子や孫など、自分より下の世代を事件に巻き込まれる形で亡くすことに比べれば不条理さもない。しかも看取る事までできた。それなのに筆者は身を引き裂かれる悲しみを味わった。不慮の事故や事件で突然に子供を亡くした親の気持ちとなるといかばかりか。まさに察するに余りある、と言う他はない。死後存続、即ち肉体の死滅後における意識・個性の存続が事実で、自らの死後、先に他界した身内に再会できるとなると、こういった悲嘆は相当程度緩和されるのではないか。事実、後述する鏡視実験(鏡を用いて死別した人と再会し、コミュニケーションを取る手法、主にアメリカにおいて体系的研究がおこなわれ、一定の成果が報告されている)では、愛する他界した身内と再会を果たした被験者の悲しみが相当程度軽減され、それ以後の生活がポジティブに変化した事例が多く存在する。もし現代科学で認められていない概念でも、その非存在性が積極的に証明されているのでなく(「非存在性の証明」自体困難極まるものであるが)、逆に存在をうかがわせる研究があり、その存在様式が解明される可能性が少しでもあるなら、「死後存続」を頭から否定する態度は誤りであるし、その心理的作用に鑑みても、現時点で否定する事にそれほど積極的意義はないのではないか。そう考えると私などは、心霊写真を見せられて震え上がるどころか、「死後存続」のすばらしさ、その可能性を見せられた感がしてむしろ胸が躍る思いがするのである。ある時点ある場所で、伝聞する逸話やその場の雰囲気から「幽霊が出そうだな」と感じる状況下で、心理的作用から心霊とは全く関係のない出来事をそれと心の中で勝手に結びつけてしまう(前述の鳥獣の鳴き声の例のように)ことは大いにあり得ることである。フェイク(意図して創作された心霊写真や動画、体験談等)も過去には数多あるだろう。しかしそれだけで片付けられるほど問題は単純ではないのかもしれない。少なくとも筆者は、徹底した検討を様々な理由を付けて回避し、単純化して片付けてしまうよりは、背後に横たわる物理法則はないのかと考えてみる方がずっと楽しいと思っている。(つづく)
 
 
 
 
の中のVolume 5, Number 10, October 2013
"Fermion field in the vicinity of a brane"