Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

多次元宇宙2

 
確かに自分で撮った写真に得体の知れない顔のようなものが写っていたら、不気味なことこの上ない。TVで語られる心霊体験、例えば泊まったホテルで寝ていると金縛りにあい、目を開けるとベッドの横にこの世の者とも思えない者が立ってこちらを見ていた、なんてことを実際に体験すれば、心穏やかでいられるはずもない。幽霊の存在を信じていない人でも心霊写真と思える写真が撮れてしまったとすれば、ひょっとして悪霊の祟りが自分や写っている人に降りかかるのではないか、などと心配になるのも無理はない。真夜中に一人で、人気のないどこかのいわゆる心霊スポットを探索してみろと言われたら、大方は拒否反応を示し、無理強いされたところで平常心で遂行することはできないだろう。肝試しと称し興味本位でその様なスポットに出向くケースはあるが、一人でなく友人と連れ立って行く事が多い。つまりそれ自体大勢で楽しむイベントであり、前述の居酒屋チックなノリと大差ない。「平気」でないからこそ、肝試しをするのであり、心理的な非日常性を彼らなりに楽しんでいるのである。
 
              心霊の存在に依るものでないものを心霊現象と誤認する落とし穴はいくつも考えられる。幽霊が出るとうわさの山中のスポットにやってきたとしよう。真夜中に行こうとすれば当然懐中電灯などの照明装置を持参する。仲間とのおしゃべりも足音も辺りに響くだろう。普段人の入り込まない深夜の山林での人の気配に、周囲の木々で眠っていた鳥や獣たちが驚いて警戒の鳴き声を上げる。それが平常心でないことの心理的影響も加わって人の叫び声のように聞こえ、肝試し行脚の人々が逆に驚いて逃げ出す、などという事が起こる。そういう時の心理状況を一言で表現するならば、恐怖心ということになるだろう。真夜中の暗闇に沈む森の中で予期せざる物音が鳴り響けば、そりゃ怖い。予期せざる物音や情景の突発的な生起に起因する、どきっとするような体験に伴う瞬発的な感情と、身の危険を感じた時に起こる比較的長時間続く感情、そのどちらもが恐怖感という言葉でくくられる。先の真夜中の山中の例はその両方を感じているケースである。本稿で「恐怖」という言葉を用いるのは主として後者の意味においてである。霊の怖さを考える為に、敢えてその存在を仮定した上で、それが人に祟るとしよう。人に祟るのは人の為す所にあらず、霊ならではの所業であり、その意味で確かに「霊は怖い」と言える。なにしろ人が行ういたずらと違い、時間的空間的制約を受けなさそうだから一層不気味である。だが人に祟る悪霊が霊の全てだとは言えない。霊全般が常に誰かに祟りをもたらすわけではあるまい。少なくとも、自分の愛する肉親や配偶者、子供と不幸にも死別したとして、その人の魂が自分に祟って災いをもたらすと考えなくてはならない理由はない。悪霊がいれば、善霊もいるはずであり、怖いのは前者である。人間であっても、仮に性善説を取るにしても全ての人が常に善行を為す訳ではないことは認めざるを得ないだろう。現に悪事に手を染め、他人に害を及ぼす輩はいつの世にでもいる。あくまで幽霊が存在すると仮定しての話だが、怖いのは害をもたらす一部の悪霊。そう考えると、犯罪の魔の手に不安を抱きつつ閑静な住宅街の人気のない夜道を歩く恐怖感と、幽霊に対し漠然と抱くぬぐい難い怖さとは、同じ種の恐怖感としてくくる事ができる。勿論この世の犯罪者に比べ幽霊は壁をすり抜け、自宅の寝室にも泊っているホテルの一室にも入ってくるのであるから超強力なストーカーであり、その始末の負えなさはやや上かもしれないが。少なくとも「悪人が存在する、だからあらゆる人間とつながりを持ちたくない」という図式にのっとるのでなければ、「霊=悪、だから幽霊は忌むべき存在」というスタンスもいささか短絡に過ぎると言えよう。(つづく)
 
 
 
の中のVolume 5, Number 10, October 2013
"Fermion field in the vicinity of a brane"