Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

多次元宇宙23

おわりに
              人の心や意識は脳の活動の産物なのか?ここに疑義を差し挟み唯物論的立場を堅持しながらその解明の努力を払うには相当なエネルギーを要する。現代脳科学では、例えば精神状態や外界からの刺激に対し活性化する脳の部位の相関や、逆に脳への刺激とその結果として生ずる感覚等の研究から、脳の各部位の機能が体系化されてきている。特に近年における脳機能イメージング技術の進展により、脳の機能局在の解明は更に精緻の度を深めてはいる。しかし個人の意識や個性、記憶の脳活動を基とした発現メカニズムについては、現時点では解明からは程遠いと言わざるを得ない。逆にこの3次元空間に浮かぶ質量もあるかどうかわからない、魂などといううっすらふわふわしたものに、そのような脳機能の所在があると実証するのも不可能であろう。一方多次元宇宙の描像では、我々の住んでいるブレーン以外のブレーンに別の「物質的」心の基盤、”another brain on another brane”がある、とすることはできるかもしれない。そうすると我々の頭の中にある脳の役割は?一種の受信機みたいなものだろうか。脳における局在した機能の解明は、我々の精神活動と脳とがどのような形にせよ間違いなく強く結び付いていることを示している。現状ではブレーン間相互作用は、それが重力によってのみ行われたり、階層性の問題が生じたりと、越えられない難題を抱えており期待薄だが、今後の物理学の発展如何では何らかのブレーン間相互作用に基づいた体と心のやり取りがあるかもしれない。しかし物質的基盤に寄らない脱唯物論的心が存在する可能性までは推定できないと考える。
              この稿を起こしている最中に、光速を超えるニュートリノ観測の可能性を伝えるニュースが飛び込んできた。まだまだ確認作業が必要な事例ではあるが、もし確認されれば現行相対性理論は覆されることになるかもしれない。前述のO教授は相対論がひっくり返ったら我々は存在できない、と言った。科学の進展に予断は禁物である。予測を越えた結果が得られてきたのが現実の歴史である。ニュートリノ関しては、その後の展開ではどうやらヒューマンエラーだった可能性が高いようである。今後の検証実験次第では「光速を超えるニュートリノ」が否定される可能性は大いにある。しかし大事なのは、現行理論を覆す実験結果はいつでも得られる可能性がある、ということである。覆し方の大小は様々であろうが、仮に想像を絶するほどそれが大きいものであっても、それから目をそむけるのは科学者として正しい態度ではない。それが正しい結果であるなら、理論の方を修正すべく大いに努力すべきである。こう書くと如何にも当然のことのようであるが、「言うは易く」である。先のO教授然り、地位の確立した大御所ほど、自分のよって立つ理論を否定する結果を容易には受け入れたくないものである。その御仁の重みのある言葉を有り難がって拝聴するのは良いが、鵜呑みにするのは危険が伴うのだ。一つの逸話を紹介する。筆者が大学勤めの頃、元東大工学部教授で現在はアメリカで現役の物理学者H教授の提出したあるモデルを、本人の強い勧めもありこれを用いて計算をし実験結果と対比する、という仕事があった。しかし結果は全く相異なるものであった為当該モデルを使用しない計算を返送した。するとなぜ自分のモデルを使わないのかと大層な剣幕だ。そこで彼のモデルの誤りを指摘すると今度は仮定が間違っていたとか計算違いをしたなどの言い訳をし、今忙しいから3ヶ月後の12月にまた返事をするということになった。そして結局そのまま年が変わっても音沙汰なし。このような経験ははっきり言って枚挙にいとまがない。数多く経験してきた。大学教授なんてこんなもの、との感想が率直なところである。専門家の専門家たるゆえんはもちろんその専門知識の深さ、広さであるが、これを敬意を持って拝聴はしつつも、決して神棚に祭って拝むべき、侵すべからざる存在ではない。批判的見地は必要である。素人だからと臆することはない。どんどん声に出して批判しよう。そこから新たな見地が明らかになり、科学の次のステップに進む旅が始まるかもしれないのである。その為にもとにかく誰でも、何でも疑ってかかってみることである。新しい発想は批判的見地から生まれる。相手がどんなに常識的な知識であっても、偉い人の言葉であっても、勇気を持ってまずは疑ってかかることが重要だ。
              死後存続を容認する科学的成果を得るとするならば、それは現行標準理論の改良で賄えるものではなく、どこかの段階で物理学の大変革が必要になるだろう。それは今研究が進められている弦理論の延長にあるのかもしれないし、全く別の、現時点では誰も予想してないような指導原理に基づく理論なのかもしれない。戦前、日本が中国やアメリカとの戦争に邁進していた頃、基本的人権や民主主義などという概念は誰の頭にもなかった。政治、経済、教育、文化活動全てにおいて軍事が優先され、封建時代さながらの拷問という実力行使も辞さない特高警察や治安維持法などの存在する中で自由にものも言えない時代だった。その中で他の国を武力で支配し固有の市場を切り開くことが日本の活路を見出す事のできる唯一の道と誰もが信じ込まされていた。しかし戦後は価値観が大変革を遂げ、経済的にも戦前の目論見とは異なる形での発展を遂げた。昭和の経済発展を戦前期の誰かが予想し得たであろうか。しかもわずか20~30年程度の時間スケールでである。経済も自然も人間の思うようになる代物ではない。理論武装しある程度のコントロールは可能だが、自在にあらゆる操作ができることなど望むべくもない。仮に昭和の経済発展を体験した経済の専門家がタイムマシンを使って江戸時代へとタイムスリップし、その知見を元に同時代の人々に教唆して同じような経済発展を起こせることができるかというと、おそらくそれは無理だろう。大規模産業、全国的流通と取引を可能とする貨幣経済体制、リアルタイムなコミュニケーション手段、都市への人口集中などを前提とする彼の知識はローカルな商取引や手工業主体の同時代では花開かせることはできないであろう。そこには人の力の及ばぬものがある。物理学の大変革もある日突然天から降ってくるものではない。歴史に名を残す物理学者がいて、では彼の業績はただ一人彼の天才なるがゆえかと言えばそんなことはない。師匠やディスカッション相手に恵まれたとか、研究環境如何の問題もさることながら、それ以前の長い期間の多くの研究者たちの活動とそれによる進展の積み重ねの中で生まれるものである。個々の研究者の研究活動に目を移せばおそらくそこには一進一退が存在する。それら全てがいずれ来る変革の準備だと思えば、一つも無駄なことはない、とも言える。後に誤りと判明した「大発見」は数知れない。20年ほど前、一億度程に加熱しないと起こらないとされている核融合が常温で起きている兆候が発見されたとされ大きく報じられたが、後に否定された。右回りと左回りとでコマの質量が異なるなどという報告もあり衆目を集めたが、これも間違いであった。今回の超光速ニュートリノの件も同様な運命をたどるのかもしれない。しかしそれでよいのだ。利潤を目的とする企業の研究所ではそれ程失敗を容認する余地はないが、自然科学研究に紆余曲折はつきものだ。進歩する為に必要なものだ。もし誤った研究結果を非難する風潮があればその方が憂慮されるべきものである。自由な研究活動が委縮してしまうかもしれないからだ。しかし残念ながら大学研究室でも、失敗を許す余地は現実にはそれほど多くない。企業ほどではないとはいえやはり成果は論文の数であり、質より量が求められる。長大な時間を要し大きな失敗も辞さない覚悟で初めて臨めるような研究テーマは最初から敬遠される。なるべく短時間に多くの論文を書く方が、当人は評価されてポジションが上がり、科研費も手に入り易くなる。しかし科学技術の発展を期するなら、もう少し長い目で研究計画を立て遂行できるような体制になれないのだろうか。野心的な研究者はすぐ成果の上がる小さいテーマをこなしながら、本来の自分のライフワークをサイドワーク的にするしかない。ラッキーな人はそれでも一定の成果を挙げることはできるがどの道効率的ではないし、特に基礎物理学の分野では実験にしろ理論研究にしろ、すぐに成果の期待できるテーマを見つけ出すこと自体が難題だったりもする。そして本当にやりたいテーマで研究活動を行うことができている研究者はどれほどいるだろう。研究室を主宰する立場の者は別として、大方は組織の為に自分を殺している部分があるだろう。研究に限らずどんな職業でも同様の事はあり、特に若い内は仕方のない面もあるが、こと日本の大学予算はかねてより諸先進国と比べても最低水準にとどまり、地方大学は研究費はおろかその存立すら危ぶまれる状況である。近年の構造改革国立大学法人化の流れは国際競争力重視の名の下に基礎研究を一層軽視し、人件費を抑制する方向を一段と加速させている。科学研究は知的基盤であり、社会の文化的発展や生活向上に大きな役割を果たしてきた。今の現状は今後の大学の基礎研究活動による社会的価値創造、技術創造がより困難になっていくのではないかとの危惧を抱かせる。若い研究者やその卵たちが経済的理由で当初の夢をあきらめざるを得ない状況を少しでも改善し、基礎・応用研究の諸分野で研究者の個性が最大限発揮でき、野心的な研究をサポートできるような社会体制が実現されんことを祈念して、筆を置くこととする。
 
(本エッセーは2011年11月記。従って下記研究論文"Fermion field in the vicinity of a brane"(2013年発表)の研究内容には触れていません)
 
(おわり)
 
 
の中のVolume 5, Number 10, October 2013
"Fermion field in the vicinity of a brane"