Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

多次元宇宙22

車の運転を想像してみて欲しい。例えば右折時対向の直進二輪がいないか、渋滞する対向車線の車の陰から人が出てこないか、危険を予測しながら運転するのが常道である。教習所でも教えている「かもしれない運転」である。これは独断での決めつけを戒める危機管理術である。決めつけは怪我の元なのだ。番組でゴツゴツした岩肌に人の顔が無数に写っているとする心霊写真を前にO教授はシュミラクラ現象を説き、別の、シュミラクラでは説明できないより精巧な「顔」の出現した心霊写真を捉えて、「これが顔である証拠はあるのか?」と問うてきた。顔である証拠がないことで、それが心霊でないことの証明にはならないことに注意すべきである。今後の検証可能性の有無と、真贋判定とは別問題である。検証は確かに難しい。しかしそれがフェイク等と決めつける根拠になってはいけない。どのようなものが「顔である証拠」たり得るのか。例え誰が見てもはっきりとした顔であったとしても、人の手が加えられた偽物の烙印を押されるだけであり、その写真が心霊が存在することの証明になるわけでは勿論ない。フェイクの可能性は常にあるわけで、不思議な写真と言う他はないのである。顔であるともないとも、心霊であるともないとも、写真だけで判断はできまい。心霊であると断言しようとするから足元をすくわれる。そもそも写真で何かを証明しようというのが間違いで、個々に怖いなとか不思議だなとか色々な感想をもち、楽しめばそれでよく、それ以上の議論は求めない方が安全であろう。楽しめない人は見なければよろしい。筆者なぞは個人的に、「あの世」の存在を示唆する(証明ではない)ようなその様ないわゆる心霊写真や動画、体験談と言ったものには、ものすごいロマンを感じ、探求してみたいと思う好奇心が呼び起こされる。これも私個人の一つの感想であり、楽しみ方である。オカルト肯定派の某出版社社長とO教授のコンビの論争が、毎年年末に放映される特番の目玉となっていた時期があり、お互いの強い個性がぶつかり合うコントのようなやり取りが視聴率に貢献している。エンターテイメントとしては面白ければよいかもしれない。しかし前述のように当事者の一人は科学者の一人として登場している。面白さをウリにする為に個性的な言動が求められ、その代償として科学の名の下での断定、個人説の押し売りが行われる。いや、個人説をTVで流すのはよくあることであり、それ自体はよしとしよう。しかし見過ごせない裏話がある。同じ番組にオカルト肯定派というくくりで出演していた某作家がO教授を番組内で批判しO教授が論破されそうになった時、ディレクタに止められたそうである。O教授は突っ込み、出版社社長はボケの立ち回りで番組が成り立ってきており、O教授は常に相手をやりこめて番組が成立するというわけである。この図式が崩壊するのは番組としては困る、という訳だ。しかしどう考えても、番組として一つの意見(しかもここでは科学の代表)を正義とし、それへの批判を悪として扱うやり方は、やや一方的に過ぎるのではないか。前述の番組で司会者K氏が、心霊と言う無いものをあるかのごとく放送するTV側にも問題があると述べているが、意見が分かれているのに一方を正義の如く、常に相手を論破する役回りで番組を構成するやり方にこそ問題があろう。バラエティ番組のありようについて再考を促したい。まじめに考察するのであれば、教養番組として、タレントが脇からチャチャ入れるのも無しにしテーマを絞って時間の許す限り徹底的に討論すればよい。
(つづく)
 
 
の中のVolume 5, Number 10, October 2013
"Fermion field in the vicinity of a brane"