Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

多次元宇宙5

              筆者自身もかつては漠然とではあるが、あらゆる心霊現象に科学的解釈が与えられ、死後の世界や幽霊などは存在しないとする方向での結論がいずれは出るのだろう、との考えを持っていた。しかし親の他界を機に、科学研究や教育の世界で常識とされている死後存続についての従来の見識を、そのまま真実として受け入れるのは早計なのでは、と考えるようになった。例えば心霊写真や心霊動画と呼ばれるものが数多く世の中に出回っている。コンピュータが普及して久しく、デジタル画像の編集技術も一般的となった今日だから、手間暇かければ「本物」的な画像は作れそうだ。ここに一枚の心霊写真を持ってきたとしよう。それが実際のCG(コンピュータグラフィックス)技術で作成可能かどうかを判定するには専門知識が必要かもしれないが、少なくと素人的にはできるのではないかと期待もできる。で、実際にある写真のそっくりさんをCGで作ることができたとしよう。そこで「ほらインチキだ。この写真はCGで作られた偽物の心霊写真だ」、と結論付けられるだろうか。自分で同じような写真を作れたからと言って、当該の写真も同様の手口で何らかの意図をもって人の手で作られた偽心霊写真と断言することが、理にかなっているだろうか。改めてこう問われると、「いやその結論付けは、早計だ」との反応も示してもらえそうだが、TVはじめマスコミでの論調は得てして、このような冷静に考えれば理に合わない論理がまかり通っているのが現実である(この事情については後で詳しく考察する)。改めて言うが、ここで得られる結論は、「CGで作られた可能性がある、心霊写真のようなもの」止まりであり、それ以上の事は言えないはずである。そっくりさんを作ることができたとしても、その写真は実は本物の心霊を捉えた映像なのかもしれないのである。もちろん逆の事も言える。自分ではCGでそっくりさんを作ることができなかったとしても、自分の技術なり使用したソフトのクオリティが足りなかったり、費やした時間が足りなかっただけで、検討対象の写真は本当にCG使用の偽物心霊写真だった、などということもあり得る。そう考えると、その写真がCGその他人為的術を持って作成されたことを証明するには、一体どうしたらよいのであろう。
              科学は信仰とは異なるのであり、観測や実験事実の積み重ね、それに基づき構築された理論、理論から推定される異なる条件での実験結果、実験技術の向上に伴う新たな条件下での実験とそれによる理論の検証、既存の理論で解釈不能な現象を前にした新たな理論の提案、このような過程の繰り返しを経て進歩してきた。こうして私たち人類が獲得した現在の科学的知識は、自然現象の解釈にとどまらず、自然に手を加えたりまたこれを利用することをも可能とし、私たちの生活に利便性や快適さをもたらしてくれたことは疑いない。科学技術の今日の達成点、そこからの抽出物が我々の生活の隅々に浸透しており、温度や湿度の管理された快適な生活や高速の通信、短時間での長距離移動等々、生活の多方面で数多の便利さを手に入れている。多かれ少なかれ誰もが、技術の進歩がもたらす利益を享受している。国際宇宙ステーションにいる日本人宇宙飛行士が中継で小学校の子供たちにリアルタイムで特別授業をしたりする。それを見て人は「技術の進歩はすごいなぁ」などとため息を漏らす。この「すごい」は多分に主観的なものであり、同じ対象でも人によって感じ方が違うのは当然であるがそれはさておき、それは時間的な相対評価でもある。筆者の子供の頃は電話なぞある家もない家もあった。電電公社からのレンタルで我が家にやって来た、装飾性のかけらもないグレー一色のダイヤル式電話機も、子供の目には神々しい輝きを放って映っていたものである。それが今となってはほとんどの人が携帯電話を持っているし、パソコンやスマフォを持ち歩けばTV電話もお手の物である。比較のスケールは自分の半生の中、戦後の頃と比較して、或いは高度経済成長前と比べて、歴史書で調べた何百年前と比較してなど色々あり得るが、いずれにせよこの相対評価は、どこかの時点と「今」との比較を伴う。膨大な時間と費用と労力、失敗の繰り返し、人生を賭けた大勢の研究者たちの流した血と汗があればこそ、科学技術の達成がそれだけのパワーを持っているとも言える。しかしそれが故に、ことさらに畏敬の念を持って現今科学知識を絶対化しこれを修正するいかなる動きにも反対する、となるとすればこれは科学の発展に背くの誹りを免れず、また過ちの元となるであろう。いくらすごいと言っても相対評価なのであり、今が技術のピークであるはずもなく今後も間違いなく進歩し続けるものである。本人も気づかぬうちに個人的感覚によって思考が停止し、「現代科学で解明できてないのだから」といたずらに現象の存在を否定し、もしくは幻覚やフェイク(いたずら)などに要因を求めないようにしたいものである。宗教における教義とは違うのであり科学知識を教条化してはならないのだ。現代理論物理学の二大主柱である量子物理学と相対性理論、それですらも絶対的に正しい確立された理論ではない。現に20世紀初頭に理論が体系化されて以降、現在でもその検証実験は進められている。実験や観測の技術が進歩しより高エネルギー、強磁場、強電場、超高温、超低温での実験が可能となり、より微細な空間や深遠な宇宙の奥底を観測できるようになる程に、私たちの知識が再度試される領域が増大し、かつその必要が生ずる。もし既存の理論で解釈できない現象が観測されたのなら、理論の方を修正せざるを得ない。科学に携わる者はこの点だけは踏み外してはならない。科学者は実験結果や観測結果を積み上げ、常に知識を拡げ開拓していかなければならない。とするならば、既存の知識で説明できない観測結果が「非科学」なのでなく、既存知識を絶対化した現象の背景やメカニズムの解釈(インチキとの断定を含む)の態度こそが非科学的と言えるのである。(つづく)
 
 
の中のVolume 5, Number 10, October 2013
"Fermion field in the vicinity of a brane"