Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

多次元宇宙7

              偶発的に生起した心霊現象の体験を過去形の形で収集し分析等を行うそれまでの心霊現象の研究と比べるならば、その違いは明らかである。実験室内で人為的に霊と人との遭遇を引き起こし、霊と対面している人を客観的、リアルタイムに観察できるのであり、「幽霊を見る」という一種の超常現象を実験室レベルで研究できるという意味で画期的と言えるものである。もちろん額面通り受け取ってよいものなのか、すなわち鏡を通じて他界の故人との面会が実現しているとしてよいのか、それとも脳内作用による一種の錯覚なのか、なお予断なく検討する必要はある。現代科学知識の枠内で事を捉えようとするなら、後者の考え方の方がはるかに受け入れやすいものであることは間違いない。しかしその場合でも、鏡を凝視することで如何に変成意識が生まれるのか、そのメカニズム、そしてそもそもここで言う変成意識とは如何なるものなのかを解明していかなくてはならない。シャーマンが祈祷の過程で独特の意識状態を形成し、その中で神託を受けたりするのと似ているのかもしれない。一方故人の魂が肉体の滅亡後も存続しそれが現れているのだとすれば、やはりそれはそれでより一層問題山積となる。なぜ鏡を通じてあの世の存在と対面できるのか。鏡と言う光の反射面を通じてこちらの世界とあちらの世界とが結びつきあうメカニズムへの問いは、あの世の在り様と共に問われることになるだろう。鏡視そのものを離れても、魂の死後存続自体に問題が付きまとう。ナイーブには、死後も生前の記憶があるのか、生まれ変わりの存否は?どの程度下等の動物まで「魂」が存在するのか、「死」によってあちらの世界に遷移するメカニズムは?個性は維持されるのか?この世における脳の役割は?「死」の前後で知識が連続し、成長度合いや外見も連続するならば、オギャーとこの世に生れ出た時のそれらの不連続性との相違はどこから生まれるのか?等々、誰にでもたちどころに、様々な疑問が湧きあがってくるだろう。研究というからには、これらの疑問に全て答えるような発展を是非とも期待したいものである。ところで今日ある死生学は死によって意識・個性が消滅することを前提とし、それを踏まえた上での死との向き合い方を研究対象とする。死後存続を認めるなら、当然のことながら死生学は根本から変更を受けなければならない。あの世が存在するのであれば、この世とあの世との質的違いは何なのか。死というイベントを挟むだけで両者は良く似ており、家族親戚とのつながりが連続し、生活環境も大きく異ならないのなら、そもそも死生学の存在意義すら疑われてしまう。反対に生前の人間関係は死を通じて完全にリセットされてしまうのであれば、死後の世界に自我が存続すると分かっていてもその前に家族にあいさつの一つもしたいし、それなりの心構えが必要になってくるが、いずれにせよこの死生学も大きな変革を余儀なくされるであろう。
              注意しなければならないのは、「死後」の実在に疑問点が多いということが、その実在に対しおのずと反証となるわけではない、ということである。科学への向かい方として、疑問点が多いからと言って探求を放棄し、疑問点がより少ない結論を持って事を断ずることは、或いは容易ではあるかもしれないが正しい態度とは言えない。鏡面がその入口になるかどうかはともかく、この世界とパラレルに存在する他の世界が存在するかもしれないとする宇宙観は、別に漫画や小説などのフィクションの世界だけでなく、物理学の最先端でも研究の対象となっている。発想それ自体も興味深いものであるし誰でも一度は耳にした事があるのではないだろうか。しかしこのアイデアが事実だと判明したなら、少なくとも私たちの宇宙観が大幅な変更を受けることは間違いない。公教育の場で今現在教えられている科学の内容と整合していないだけでなく、生まれてから今日までの日常生活の中で知らず知らずのうちに形成された我々の常識とも全く異なる世界観である。パラレルワールドの存在が明らかになるということは、我々の世界観に一大変革が否応なしに起こるということである。仮の話でもあるのでその時何が起こるか想像しにくいが、それまでの常識が常識でなくなる大きな知識の塗り替えが起こることは間違いなかろう。(つづく)
 
 
の中のVolume 5, Number 10, October 2013
"Fermion field in the vicinity of a brane"