Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

多次元宇宙14

マスメディアに仕込まれる「麻薬」
              心霊現象やUFOなどの超常現象を扱ったTV番組は、そのほとんどがバラエティ番組に分類される。いわゆる教養番組でそのような分野を真正面から扱ったものは余り見かけない。そのこと自体は目くじら立てて問題視する必要はないのかもしれないが、さすがにそこはバラエティ番組、いかにも個性の強い面々が登場してくる。「科学的見地」から心霊の存在を否定する反オカルト派の物理学者や知識人、タレントの側も、肯定する立場の作家や出版関係者、霊能者達の側も、その特異性から大衆の耳目を引きつける言動が多いし、なにしろお喋りが達者だ。人前に立つことの多い人たちだからそれも当たり前かも知れないが、とにかく個性派どうしのぶつかり合いは、内容や分野の如何にかかわらずそれ自体見ていて結構面白いものだ。その点では国会の予算委員会なんかも似たようなもので、その中継なんぞはそこら辺の下手なドラマやクイズ番組なんかよりはるかに面白い。それはともかくとして、そんなバラエティ番組の中の一つを例に取り上げてみる。著名なタレントで元コメディアンのK氏が司会をし、反オカルトで論陣を張るTVでおなじみの早稲田大学O教授(当時)が共演して、「幽霊を見た」と主張する一般市民100人とスタジオ内で対峙し、論戦を交えるという番組があった。本稿では、不十分さはあるかもしれないが簡単のため両者をそれぞれオカルト派、反オカルト派と呼ぶことにする。O教授は勿論だが、K氏も心霊否定派であり、反オカルト派ということになる。この反オカルト派の彼らの論点の内、気になったものをいくつか挙げる。
 
「科学ですべてが分かってしまったと言う人が、幽霊を信じている」
<現代科学で解明できないことは多い。だから心霊とか神とか妖精といった神秘的な存在は確かにある>とのオカルト派の主張に対しての発言。現代科学で解明に至ってない現象が少なからず存在することを否定する者はまずいないであろう。その前提の上にたって、ではオカルトに対しどういうスタンスを取るかというのが問題である。実体験にしろ、不可思議な写真や映像を見るにしろ、とにかく説明のつかないいわゆる心霊現象を目の当たりにした時に、直ちにこれを心霊に結びつけるのは拙速に過ぎる、とは言えるだろう。前章でも述べたように、科学とは紆余曲折、停滞期などは伴いつつも常に発展し続けるものであり、今後の発展とそれによる謎の解明に期待するスタンスこそが理にかなっているのである。また反オカルト派の側も、現状で説明できないものを心理作用や誤認などに帰着させ、以後の解明の努力を放棄している事例はないだろうか。錯覚だと決め付けるのは典型だ。物事を断定するには科学的根拠が必要だ。しかし根拠も不明なままの断定が少なくないのは残念である。
              唯物論的世界観には限界があり、その外に心霊現象の要因がある、とは興味深い見解だが、霊能者の言葉や宗教の教義をトップダウンで受け入れるたぐいの非科学的形態をとらない、唯心論・観念論的自然科学研究とは一体どのようなものなのか、残念ながら筆者には見当もつかない。逆に従来型科学研究手法に則り、唯物論的世界観の枠内で死後存続の可能性を探究することにはまだ未来があるように思う。「幽霊」即ち他界した者たちの魂のこの世への現出を、現代科学の発展の結果証明できる日が来ないとも言えないのではないか。判らないから研究する、研究すればするほど謎は深まる、だから科学は面白いのである。
 
「不可思議なものが見えたり、音が聞こえたり、金縛りなどの心霊現象は学習効果の現れだ。」
常々マスメディアや日常会話などで見聞きした体験談とそれへの判断内容、例えば「金縛りにあって、目を開けると目の前に老婆が」といった「心霊体験」談を元に、心霊現象と結びつけられやすい現象を、まさにそれが心霊現象であると学習してしまうということである。筆者も一度だけいわゆるこの金縛りにあった事がある。学生時代、夜中にふと目を覚ますと、意識ははっきりしているのに身体は眼球以外全く動かせない。恐怖感はなく、「これが金縛りと言うやつか」と妙に感動を覚えていた。感動しながらも何とか動こうともがき、何とか右手を肘から先だけ持ち上げる事ができた。その時である。持ち上げた右手に目をやると、確かに自分の右手がそこにあるのだが、透けているのだ。その透けた右手の向こうに、街灯の明かりでぼんやり光るブラインドのかかった窓が見えていたのをはっきりと覚えている。目にしている不可思議な現象が本当に起こっている事なのか、それとも夢か幻想の様なものなのか確かめようと必死に意識をはっきりさせ、目を見開いて右手を凝視し、不変なその現象のありようを確認したものである。しかし筆者はこれを心霊現象だとは思っていない。金縛りなのだから、目覚めていて意識はあったが身体が眠った状態にあって動けなかったのだろうと思う。おそらく右手は上がっていなかったのだ。正確には、夢の中で右手を持ちあげていたのだ。目はあいていて、うっすら光るブラインドの窓の光を網膜は捉え、脳はそれと認識した。一方、挙げた(つもりの)右手を脳は(夢の中で)見、この夢の中のビジョンと実際視野に捉えたビジョンが重なったのだと思う。これは推測であり断定はできないが、他に何とも解釈や説明のつけられない現象でない限り、殊更心霊現象である可能性を取りざたしても仕方がないというのが筆者の考えだ。検証対象はなるべく確固としたものでなければならないであろう。だとすれば否定の可能性が大である以上追試実験等の可能性のある時の他は検討の対象から外さざるを得ない。疑わしきは罰す、である。この金縛りの出来事は過去のことであり、実験などで思うように再現するわけにもいかず追試ができるわけではない。というわけで筆者は自身のこの体験を心霊現象の対象の外に置いている。しかし同じような体験をし、人によっては心霊体験をしたと信じ込む可能性があることは容易に想像できる。K氏の言うような学習効果を強く受けた人は確かに、金縛りにあった瞬間から、自分は霊にとりつかれたと思い込むのかもしれない。どう思うかは人それぞれだが、心霊現象を科学の目で見ようというスタンスに立つならば、比較的科学的に解明が進んでいる金縛りなどは、仮に体験したとしても霊の影響を受けたとの即断は避け、睡眠のメカニズムや脳の働きなども考慮に入れた既にある科学的解釈を考慮してみてはどうだろうか。また一方で、そういった心霊現象と噂されることの多い現象を体験した際、K氏の言うように「学習効果」により幽霊を見たと感じる、ということを証明できるわけではないことも事実だ。本当に心霊現象だったのかもしれないのである。そのことを否定するには、過去に遡って当該事象を検討し、根拠を明確にせねばならない。それがなければ単なる無根拠の断定に過ぎない。体験した個々の事例は、その要因が不明なのであれば物理学的にせよ心理学的にせよ解明されないのであれば、何も断定されるべきではない。(つづく)
 
 
の中のVolume 5, Number 10, October 2013
"Fermion field in the vicinity of a brane"