Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

多次元宇宙16

              先ほどのTV番組の話に戻るが、司会のK氏はタレントでありしゃべりがうまく、身振りなどを含めて相手を飲み込むのが実にうまい。これはこの種のTV番組のキャスティングとしてはある意味理想的かもしれない。しかしその脇に座っているO教授はやや情けないように思えてならない。このようなTV番組は純粋なバラエティ番組として存在するならばその内容に目くじら立てるほどの事はないかもしれないのだが、いやしくも物理学者で大学名誉教授の肩書である。その体でコメントするから、当然何か科学的に究明する番組のカラーが出てしまう。しかし内容的には上述の通り厳密さを欠き、飽くまでエンターテイメントとして捉えるべき程度のものである。教授がその肩書を捨てタレントとして出演していたのであれば何も問題はない。しかし番組編成上それは当然無理だ。彼は大学教授でなければならない。科学の権威が必要なのである。そして権威に人は飲まれやすい。飲まれると冷静な判断が失われる事があり、そこに罠がある。ここに我々は注意しなければならない。権威とは何も大学教授などの肩書だけではない。大きな声を出したり、流れるようにしゃべるのも広い意味で一種の権威づけと考えられる。怒った時に大声になるのは、それにより相手を圧倒し飲み込もうとするからだ。これも広い意味で権威づけである。その様なテクニックがK氏もO教授もうまい、と言うだけの事である。京都で心霊写真が撮れない事が心霊が存在しないことの証明になるかのごとく、その場の雰囲気にのまれて納得させられてしまう。そして証拠にならない事をあたかも証拠であるかのように論じ、聴衆を一つの方向へと導いているのである。彼ら話者のテクニックの餌食となった聴衆はそこに一片の疑いをさしはさむこともできない。できないというより、もとより疑いが心の中に生じない。問題なのは、バラエティ番組の中でタレントがやるだけならまだしも、一介の科学者が科学者の肩書でその片棒を担いでいることである。立命館大学A教授はその著書の中で、「「死後の世界」が「科学」の趣で展開されるとなると、科学は何か言わなければなるまい」と言う。幽霊を信じる信じないは人の勝手とした上で、その存在を科学用語で語ろうとする論調への批判の中で述べた一節である。筆者はこう返そう。「バラエティとはいえ影響力の大きいTV番組の中で「偽論証」が「科学」の趣で展開されるとなると、科学は何か言わなければなるまい」と。(つづく)
 
 
の中のVolume 5, Number 10, October 2013
"Fermion field in the vicinity of a brane"