Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

やや耳にタコの「科学者の役割」

科学の発展とともに専門分野の細分化が進み、科学者個人はもう隣の研究室で何をやっているか理解できない、などと言われるようになって久しい。細分化は間違いなく進んでいる。が、私個人の見解としては、近い分野の最前線でどのような研究が行われているのかについて、科学者はそれほど無頓着ではないように思っている。学会レベルのみならず、研究会や個々の研究室のミーティングまで、多様な分野の研究者を招いたり論文を紹介しあったりする試みは日常的にあるのであり、隣の研究室どころか、学際性の名の下にそれほど近いとも言えない分野間での交流や研究の共同化も、現にあるのである。
一方でそれとは真逆に、科学的知見の運用は社会的問題であり、科学者は自らの専門分野以外知る必要はなく、「専門バカ」であるべき、と公言する科学者もいるにはいる。そのような人は、仮に自分がマンハッタン計画に中心的に深く関わったとして、それが生み出した顛末に対しても省みることはせず、偉大な成果だったと胸を張るのだろうか(現にそのような人は存在するのだが)。
科学的成果の応用には、倫理や思想・哲学、社会学、心理学等他の学問分野も交えて社会的な議論が求められるのであり、殊更その成果を達成した科学者のみに責任が帰せられるものでもない。しかしかと言って科学者は、自らの科学研究のもたらす社会的影響の功罪全てにおいて、完全に無責任でいられるはずもない。
質量とエネルギーの等価性という特殊相対論の帰結を現象化し、人類は原爆に続いて原子力発電を実現した。爆弾と異なり発電の方は、効率化・大型化による商業主義的発展を辿った。商業化の為の技術開発が優先され、その落とし前の部分についての議論は後回しもしくはないがしろにされた。今福島沿岸部に行くあてもなく積み上がり続けている廃棄物の山は、その事を物語っている。結果論と言うなかれ。2011年以前も、原発は未来のエネルギー、安全・安心と喧伝しまくられていたのだ。今同じ轍を踏んでいないと、どうして言えるのか。
原発事故以降、科学の害悪を強調しその発展を忌むべきものとする議論も一部にあったが、それは極論だろう。iPS細胞、クローン技術、人工知能‥、ここでも既に商業主義が頭をもたげる。重要なのは、発展し続ける科学技術を前にして、例えどんなに厄介でも後回しにせず、手遅れにならないよう、その社会的影響について今それを検討すべきであり、その為にも科学者は専門分野のみならず、自然科学のみならず、幅広い分野の知見を参照しながら、社会としての選択に主体的に貢献することだ。

真理は相対化される

20年ほど前住んでいたマンションの近くに新たなマンションの建設計画がたった。

組合は日照権その他を盾に建設中止を訴えたが通るはずもなく、高さを1.5m低くするという妥協案を飲まされマンションは建てられた。

どちらの側にも顧問弁護士がいて、それぞれの法の解釈で議論を戦わせる。

最後は調停や裁判の形で、法律の下第三者が「客観的な」裁定を下し、どちらかが勝ちどちらかが負ける。

重要なのは、どちらも自分こそが正義だと思っている、ということ。

法律の専門家が自分なりの真理を貫き、正義と信じて戦う。

負ければ法か法の解釈をした法曹界の誰それかにその不備や過ち等の問題点を問いかける。

 

現代科学にも同じ図式が見え隠れしているような気がしてならない。

国立私立問わず、日本の大学は産学協同が推奨され、商業主義の影響をもろに受け、世の役に立つ、儲けにつながりやすい研究へと、科学がどんどん傾斜している。

経済成長イコール正義の図式の下では、その成長論理のみで科学も走らされる。

科学の側の人間は、研究成果が将来どのような結果をもたらすか想像でき、場合によっては大きな災いをもたらす可能性を十分認識しているのに、そこに殊更目をつむり現世利益追求に陥っている。

その原因は、社会の側、科学者の側、双方にあるだろう。

科学者の側の問題点について、今後考えていきたい。

いくら「未来志向」と言っても‥(2)

東日本大震災でAさんの妻と1才の娘は津波に飲まれた。

 

遺体が発見されたのは2週間後。

 

Aさんは、しばらくの間風呂に入れなかった。

 

家族が2週間も冷たい水の中にいた。自分だけ暖かい風呂に入れる訳がない、と。

 

人には納骨しないと成仏しないと言われたが、成仏してどこかに行ってしまうなら、成仏しないで、そばにいていつも出て来て欲しい、と納骨しなかった。

(私も母を亡くした時、全く同じ感情を持ったので、本当に理解できます。)

 

火葬した夜、二人が出てきた。会いに来てくれたと、泣いて手を伸ばしたら目が覚めた。

 

希望は、自分が死んだ時に妻や娘に会えるということだけ。

その為には、魂が存在して欲しい。魂があってこそ再会できる。

 

それが無いのなら、何のために生きているというのか。

 

愛する人がいない世界は、想像を絶する地獄。

 

震災から8年経って、ある日夢で妻が「待っている」と。

 

夢の中だけが、震災前と同じ気分に戻れる。夢は生きて行く糧である。

 

人々の希望はこの世の希望。しかし自分の希望は、自分の死後最愛の妻と娘に会えることへの期待。

 

妻の「待っている」という言葉は、本当の希望であり、生きるパワー。

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死後存続や生まれ変わりの実在性を研究しているとたまに、それは後ろ向きの希望で、現世に生きる本当の希望はこの世での生を喜びに満ちたものにすることで、その為にも潜在意識へ働きかけ、自分と自分の周りの人への働きかけを変える事が重要、と言われます。

 

親と仲が悪い人は、死んだ後にまで殊更親と会いたくない、と個人的に思うことはあるでしょう。

 

しかし、今の人生の前と後に自己の生が繋がっていると考えることは、前向きに生きるきっかけにこそなれ、ネガティブな思考にはつながらないのではないでしょうか。

 

Aさんの体験談はそのことを物語っています。

儲かる≠役に立つ?

週に一回程度、用事で午前5時頃川崎街道を多摩市から稲城市に抜ける。

水再生センター前の丁字路の信号2か所は高い確率で赤信号になる。

左折方向には水再生センターと清掃会社、リサイクル会社があるのみだが、そんな早朝に出入りする車は当然ながら皆無。

交通量の多い川崎街道の車は列をなし、信号が青になるのを無意味に待つ。

 

右折レーンに右折車がいないのにきっちり右矢印を出す、なども。

 

こんな無駄信号が夜や未明の時間帯に多すぎる。

結果交通を阻害し、ドライバーのイライラを増長して事故の危険性を高め、無駄なアイドリングで燃料を費やさせる。

 

おそらく今の技術なら、もっと交通の実態に即して変化する信号は実現できるはず。

 

寒い時期に曇るカーブミラーも、本当は技術的には問題なく解消できる。

 

しかしそのコストに見合うインカムが発生しないからやらない。

 

難易度的にははるかに上の自動運転技術には力を入れる。

将来のインカムが期待できるから。

 

自動運転も重要なんだろうけど、ちょっと偏重し過ぎでは?

いくら「未来志向」と言っても‥(1)

数の列(数列)がある数字に近づいていくことを「収束」と言い、その数字の事を「極限値」と言います。

 

高校数学では、数列{a1,a2,‥}がある数Aに収束することを、

 

数列anがAに限りなく近づく

 

と習います。

 

大学数学では、同じ内容を、

 

任意のε>0に対しある番号Nが存在し、n>=Nを満たす全ての番号nについて|an-A|<εが成り立つとき、数列{an}はAに収束するという

 

と表現します。

 

これらは同等でしょうか?

高校数学の方は、極限値のイメージを言っているにすぎません。それは言葉通りであり、確かに受け入れやすい。

一方大学数学の方は、極限値の明瞭な数学的「定義」です。

一見とっつきにくい印象ですが、言葉の意味を定義することで、学問は厳密さを担保しています。

それにより、今の場合だと数列論、級数論、解析学がよって立つ基礎が与えられるのです。

 

自然科学とはそういうものです。

 

はい、では量子力学のスピリチュアルバージョン

 

「潜在意識を変えれば、それが行動に反映し、周囲の人間にも伝わって、人間関係が好転し人生がうまく行く」

 

つじつまが合っていそうです。しかし本当でしょうか?

 

潜在意識、およびそれと対置される顕在意識とはそもそも何なのか?

「潜在」、「顕在」という言葉の意味は明瞭ですが、それが「意識」と結びつくと、その指し示す対象はどのようなものなのか?

 

更に、「意識」の定義も研究者によって異なるという事実にも注意が必要です。

 

「潜在意識」に関し、話者は(イメージのみならず)明確な定義を持ち、それを聞き手に提示しているのか?

聞き手は明瞭な意味を持って言葉を受け取っているのか?(イメージだけではないのか?)

 

受け取った内容が本当かどうかの検討、それが「科学的」ということです。

 

そして、言葉の定義が明瞭になされたのち更に、「行動に反映し」、「周囲の人に伝わって」、「人間関係が好転し人生がうまく行く」ことを検証によって実証しなければなりません。

ここでの検証は多くの場合統計的なものになるでしょうか。

とにかく骨の折れる作業です。

 

科学は面倒くさいし、骨の折れる、泥臭い作業の連続なことが多い。

しかしそれを避けて通ることはできないのです。

 

言葉のイメージに踊らされないように、注意することが重要です。

人の意識は光子として放出される?

※光子とは光の粒子のこと。

 

「人の意識や感情は光子でできていて、絶えず放出されており、それによって相手は影響を受けその後の行動が変化する」

 

対人関係をよくするためのノウハウを「量子力学的に」解説した言説が流行っています。

細かく要素に分けましょう。

 

1)人の意識・感情が光子でできている

2)人から光子が絶えず放出されている

3)周囲の人物はこの光子を感知する

4)光子からの情報で、行動が変化する

 

物理学とは、検証の積み重ねで自然現象の背後にある法則性を明らかにしていく学問です。

過去に培った膨大な蓄積にも学ぶ必要があります。

理性的思考でモデルを考える分野もありますが(理論物理学の一部)、それは飽くまで仮説。

その正否、そして正しかったとしても「どの範囲まで」正しいと言えるのか、それらの厳密な検証が求められるのです。

 

結論から言えば、科学的根拠があると言えるのは2)と3)のみ(それも意識や感情とは無関係な光子限定で)。1)と4)は今のところ根拠レスです。

それを仮説として世に問い、検証に供するのであればよいのですが、初めから事実としてトップダウンで提示するのは、これは科学的とは言えません。

 

量子力学」が「科学的言説」の便利な道具にされることを危惧します。

日野で講演

東京都日野市に拠点を置き活動している勝五郎生まれ変わり物語探求調査団の年に一度の総会。


その総会後の勉強会で講演しました。

 

生まれ変わり現象を物理学の側面から検討し、科学的視点とは何か、科学基礎論についても触れました。

生まれ変わり現象は、当座の現代科学では否定されていますが、発想を転換することで、実はそれは「あり得る」現象なのです。

日野市郷土資料館の小林館長に感動したと言っていただき、そして多くの方に質問していただき、手ごたえを感じました。

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日野市郷土資料館での講演