Beyond Visibility

不思議現象を「根拠を持って」科学する

多次元宇宙19

合理性判断
              よく、心霊を信じる信じないを合理的か非合理的かというスキームで捉える論調がある。霊、死後存続、死後の世界、ポルターガイスト等の心霊現象の存在を信じるかどうかでふるいにかけられ、信じるとする者は非合理主義の烙印を押される、という具合である。ところで合理性とはどう捉えたらよいのだろう。合理的な説イコール100%誰もが賛成する説ということではあるまい。そのような説はまずない。では合理的か否かの判断基準は一体いずこにあるのだろう。第一に、合理性のある解釈とは現代科学の枠内、もしくはその発展の中で現象を解釈すること、という枠をはめたい。おそらく唯物論的観点に異を唱える者はこの時点で既に首肯し難いものを感じるのかもしれない。森羅万象を現代科学が説明し尽くしていると思っている者はおそらくいないのだが、またこの「説明し尽くす」というのが永遠に不可能であろうし、自然・宇宙の深遠さ、複雑さから見れば現状の人類の知見など、まだまだ取るに足らないレベルと言っても過言でないのかもしれない。しかしだからと言って、「科学研究は所詮人の為す所であり神の造り給うこの宇宙や自然法則の解明などに対しては全く無力である」などと、殊更に無力感にさいなまれ、人類の知識欲の発露を放棄・抑制する必要もない。筆者は科学の発展の可能性にまだまだ期待したい。森羅万象のメカニズムを解明するのが物理学であるなら、そして心霊現象が再現性のある自然現象を伴う未解明の宇宙構造の発現であるのなら、それは物理学研究の俎上に登らなければならない。心理作用、誤認、フェイクを除外した上でなお客観的に現象が発生している可能性があるならば、これは科学の議題である。解明努力の放棄が科学的態度でないならば、いたずらに物質的基盤を持たない精神的なものに帰着させるのも非科学である。客観的に存在する自然現象や再現性のある実験結果を基に構築され検証された理論や知識体系、その礎に立つ思考による判断をここでは付与合理判断と呼ぶことにしよう。「付与」とは個々人から見て主として外界から与えられる、長い歴史の中で人類が蓄積してきた科学知識の上に立ってなされる合理性の判断、ということである。科学研究者の立場からすれば、場合により寄って立つ科学知識の然るべき部分は自身の研究の賜であり「外界から与えられた」との定義付けはなじまない面もあるが、その場合でも研究活動とそれによる新たな知見の会得は、基礎となるべき関連する分野での既存知識の学習を起点としているのであり、この意味を含めてここでは付与と名付けた。しかし一方で、上で述べた「理論や知識体系、その礎に基づいた思考」との言葉遣いには注意が必要である。何を持って礎とするかは人により判断が異なる可能性があるからである。筆者は鏡視を再現性のある実験結果とし、将来の物理学の発展でこれが実際の他界の存在との接触の事例であることが実証される可能性を指摘した。鏡視が再現性のある実験結果であると認める事、および物理学の発展でそこまで実証される可能性を期待することについて、様々な意見は出てこよう。まあしかし最低限、既存の知識を絶対視してはならない、ということは言える。未来永劫変わることのない普遍的真理に到達した、と思う人がいてもそれは個人の勝手だが、これは科学的態度、そして合理的態度ではない。科学知識は常に更新されるべきものであると認識し、また更新する主体が自分であることを認識することが真の科学的態度と言える。結局のところ、合理性を如何に定義したところで何を合理的とするか否かはその基準や検討範囲によって変わるのであり、つまるところ人によりけりなのである。
(つづく)
 
 
の中のVolume 5, Number 10, October 2013
"Fermion field in the vicinity of a brane"